天気の子感想※ネタバレあり

1.天気の子を一言で表すと「抑圧からの開放」

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出典:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47422780X10C19A7000000/


終盤までずっとずっと抑圧されてて、最後にすっと開放される。

そこに感動できるかは人生での抑圧の体験とか、観る時の抑圧の状況によるのかなーって。

私はたまたま観に行く状況で、前日からボタンをかけちがったみたいな辛さを抱えてて。なんか流れ変えたくて。じゃあぱーっとレイトショーで観ようかなーって。

 

物語が終盤にすーっと開放されて、それがシンクロして、涙が流れた。

 

涙がこぼれてしまった事は、自分で自分のことすごいオタクだなと思ったけど。

というのもオタク的なアニメって抑圧的な物に焦点をあてたものが多い気がするので。例えばエヴァとか。ただ、エヴァと違うのは加持さんミサトさんみたいな大人が現代的に嫌味のないすっきりしたくどさのない描かれ方してるかなーって(エヴァの大人はあまり好きじゃないけど、天気の子の大人はその点は”安心して観れる”というか理不尽さのない大人だったように感じる) 

 

主人公達が抱えている抑圧もまた、少女陽菜は母親を亡くしていて弟と暮らしている(ここもなんか自分とシンクロしてああ…ってなったよね…)。少年帆高は、家出だし職も作中の大人に拾われるまでは見つからずほぼホームレスみたいな扱い。

 

新海誠監督が

クライマックス場面で主人公が叫ぶある言葉がある。政治家が言ってはいけない言葉であり、報道や教科書にも書けない言葉でもある。でもそれを映画の感情の高まりの中で叫ばれると誰であれ、気持ちが少し動くと思う。

出典:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47422780X10C19A7000000/

 

と言っている策略にそのままハマった感じだった。 

2.代償の存在する世界

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出典:https://realsound.jp/movie/2019/07/post-394493.html

さて、天気の子のストーリーをネタバレ込みでざっくり本当にざっくり説明すると、

 

家出少年帆高が都会で拾ってくれた大人と疑似家族してたら、困ってる少女陽菜を見つけて出会いそして、その少女は天気を晴れにする特殊能力を持っていた!!!

その能力で徐々に二人の距離は近づくが、晴れにした事の”代償”で少女が消えてしまう。少女を戻せば雨は止まない。天候の事なので、特殊な能力を持っていない限りどうすることもできない。でも少年は、葛藤するまでもなく少女を戻す。その代わり雨は少なくとも3年は降り続けやがて一部の地域は沈む。

 

というストーリー。ただ少年自身は葛藤しなかったけど、随所随所に世界の葛藤自体は描かれてるんじゃないかなって。

例えばそのまま雨が降り続けると、離れて暮らすことになってしまっていた娘が喘息でやはり一緒に住める未来が望めなくなるし、高齢のおばあさんが住み慣れた一軒家を追われる描写がある。晴れにしたことにより花火大会が行われた描写があるが逆にいうと花火大会というイベントもなくなる。

そんな描写すらなくても、東京が半分沈む というインパクトは大きい。

ここ数年、私が住んでる九州も九州北部豪雨があったり、去年も実家近くのイオンが沈んだけれど。あれはいずれ雨はやんだけど。あれがずーっと続くって事だもんね。

天候のことなのでちっぽけな人間ごときが左右出来る事じゃないんだ。

 

色々感想を読んだ中でしっくりきた

前作『君の名は。』はとても好きな作品です。しかしひとつ引っ掛かったのは、瀧くんと三葉が行った現実改編には代償が伴わないんだな、ということ。

(中略)

今作『天気の子』もまた、起こってしまった悲劇を無かったことにする物語です。それも隕石落下のような誰の過失でもない自然現象ではなく、主人公の選択の結果として起こる少々自業自得にも思える悲劇をです。そしてこの現実改編には、大きな代償が伴う。しかもこの代償を支払うのは、主人公やヒロインではなく世界全体です。
主人公とヒロインの選択により、失われた『普通』の東京。今日結婚式を開く誰かのため、花火大会のため、喘息に苦しむ子供のためにも晴れていなければいけない東京の空が、もう永遠に晴れない。では、帆高の選択は誤りだったのか。彼らは自分勝手な選択をしたのでしょうか。

そうではなく、私はそもそも『普通の東京』こそが普通ではなかったのではないかと思いました。瀧くんのお祖母さんが言っていた通りです。元々沼地だった江戸を誰かが干拓し、造成して今の東京を作り上げ、それがいつの間にか『普通の東京』になったように、私たちが胡座をかいて『普通』と思っている全てが実は普通などではないのではないか。普通を成立させるためには、影に誰かの努力があり、犠牲があるのかもしれない。けれどそれが想像されることはほとんどない。

 (中略)

それと同じように、もしかしたらあの世界でも、ここ百年あまりの人間にとっての『普通』を維持するために、毎年陽菜のような生贄が捧げられていたのかもしれません。
人知れず生贄に選ばれた陽菜、彼女は前科者になってでも(あるいは殺人者になってでも)自分を引き留めようとする帆高がいなければ、きっとこの世界には帰ってこられなかった。何かの犠牲にされるとき、人が一人でそれに立ち向かうのはとても難しい。

 (中略)

自己責任論が声高に叫ばれ、自分のしたことの責任は取れと強いられるわりに、自分ただ一人のためだけに生きることも許されないこの社会で、見えない人柱に気付くということ、せめてそれを想像しようとすること。その必要性を、私はこの映画のテーマとして受けとりました。

出典:https://eiga.com/movie/90444/review/02130640/

なんかもう、言いたいこと全部詰め込まれてるので(本文全部読むとその気持も大きくなると思う)

私が言える事は何もなくなってしまったけど。 

狂った世界こそが、実は元あった普通の世界。世界は元々狂ってる

 

 3.説明が極限まで省略された映画

「君の名」に説明がなくだめだった人は、よりだめになってると思うぐらい説明は省略されてる。

それ自体も勿論面白かったんだけど、脚本家の人が書いた「内容が面白かったからこそ想像力を刺激されて」という映画中に意味をもたせる説明が結構しっくりきた。

これは完全に一度見た人向けなんだけど

 

ラブホテル

高額な避難所にして一夜の憩いの場と、凍える冷気に耐えねばならないどこかの路上(屋根つき)のシーンの順番と意味を逆にする。(中略)

問題は、風雨をしのげるラブホテルのぬくぬくした状況で「晴れてほしいか」と質問され、しかも前段で「命や存在にかかわる」ことを明示された挙げ句、イエスと答える主人公を、もっとこうしたら良いのではないかという点である。

結論から言って、その前のシーンで凍えている描写があるので、順番を逆にし、そこを「晴れてほしいか」と問うシーンにすればいい。

いったんラブホテルに首尾良く入り、有り金をはたいていっときのぬくぬくを得て、ヒロインの悲劇的な告白を主人公が受け入れてのち。
ヒロインを守りたい主人公であるが、金もなくなり、行き場もなくなり、ただ屋根のある路上で、三人ともに凍えて寝るしかないそのとき。
極寒がもたらす生命の危機において、意識朦朧とする主人公に、ヒロインが尋ねるのが、「晴れてほしいか」ではどうだろうか。
主人公はヒロインの弟とともに『火垂るの墓』なみに消耗しきり、意識も混濁する状態で、「うん」と言ってしまう。
微笑むヒロイン。
眠りに落ちてしまう主人公。

そして朝が訪れたことに気づき、目覚める主人公と弟。そのもとにのみ届けられている、ヒロインがその存在の最後の名残をかけて残した、か細い日差し。その温もりが、ラブホテルと等しく、あるいはそれ以上に、主人公と弟を生存させたわけである。
だが、彼らの傍らには、ヒロインの抜け殻そのものである衣服があるばかり。

こうすると、終盤、弟が「お前のせい」と主人公を咎めるセリフも、弟の内心では「自分もそれで温もりを得た」という悲しみが上乗せされるので、ますます高揚感が期待できるセリフになるのではないか。

拳銃
終盤で放り出すなら、最初から持っていないほうがいい。
警察が彼を追ってくる理由としては、強力すぎる。銃刀法違反である。それだけの重責を主人公に与えるなら、彼の「行き過ぎた願望」に直結すべきではないか。

結論からいって、拳銃を片方の手で握り、もう一方の手に手錠をぶらさげたまま、鳥居を通過して積乱雲の頂上へ、「昇天」すべきだっただろう。

というのもヒロインが人柱であるなら、彼女が地上に再臨するためには、「過去に例のない何か」が、積乱雲の頂上で勃発するべきであるからである。

その何かについていえば、「水」と「気」に対し、「火」と「鉄」を持ち込むことは、問答無用のメタファーとして働いていたことであろう。

端的にいって、ヒロインを積乱雲の生態系に飲み込み、迎え入れようとする竜(?)なりなんなりを、主人公が拳銃で撃って、吹っ飛ばし、退けてしまえばいい。

過去何百年(作中の神社の天井画にちなんで)において、そのように個人の都合において、雲上という神聖な場で、火と鉄を行使した人間などいないはずだからだ。

そしてそのような行いをしたからこそ、「天の気の焦点」が、その時点で、ヒロインから主人公へと移行するのである。
結論を先取りしていえば、この瞬間、ハレにしてアカシ(明かし)の子である「晴れ女」のヒロインに対し、主人公が、竜殺しという世界中で見られる神話的行為の結果、ケガレにしてクラシ(暗し)の「雨男」の主人公になればいいのである。

手錠
これをわざわざ主人公の手にかけるなら、その意義をはっきりさせるべきであろう。
まず主人公が鳥居へ向かう際、その一方の手に手錠がぶらさがっている。
当然ながら片方の環は主人公の手首につながれていて「閉じている」のだが、ぶらさげているほうのもう片方の環は、「開かれている」べきだろう。
なぜなら、その手錠こそが主人公が振り払い、駆け出してのち背後に置き捨てた全てのメタファーであるのだから。

要は、「主人公は今こそ全てから解放されたのだ」ということを端的に示すものとして使うのであれば、もう片方の環は閉じずにいる状態であるほうが、よろしいのではないかということだ。

そして、「捨てた世界」の代わりに主人公が、何をおのれにつなぎ止めたいのかと言えば、ヒロインしかいないわけである。

なので、ここでも「鉄の行使」といわんばかりに、主人公が拳銃で竜なりなんなりを退けてのち、主人公とヒロインの両手首をつなぐものとして手錠を使えばいい。
主人公が、ヒロインの手を握り続けられず放してしまうシーンで、えいやとヒロインの手首に、開かれたままおのれの腕にぶら下がっている手錠をはめればいい。

そのような手段で、人柱となった者を、再び地上に再臨させた者はいない、というようなニュアンスもそこはかとなくエクスキューズできるのではないか。

鳥居のもとで、地上に戻った主人公とヒロインがともに横たわるとき、互いの手首が手錠で結ばれていることは、まったくもって「個人的な趣味」に合致する。ヤー。

出典:http://towubukata.blogspot.com/2019/07/blog-post.html

 

これを読んで、あ、いいな。と思った。

勿論、泣いたぐらい感情を刺激された映画だったので、大好きなんだけど

これぐらいの説明というか意味をもたせるぐらいのも観てみたかったかも。(天空に龍はいくら神話に沿うとしてもやりすぎ感あると思うからそこはあれだけど)

 

 

 

以上、初回観た感想まとめ。